五辧の椿

 

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どうも、椿でございます。
毎年、ヤクルトを常飲しておけば良かったと後悔しながら花粉症との闘いの日々を過ごしております。

久々の読書感想文。今回は山本周五郎の『五辧の椿』です。初の山本周五郎作品でございます。
(※ネタバレ注意)
(※箇条書き注意)
 

 

五辧の椿 (新潮文庫)

五辧の椿 (新潮文庫)

あらすじ

天保五年の正月、むさし屋喜兵衛の寮から火の手が上がり、焼跡から三人の焼死体が見つかった。三人は、長く結核を患っていた当主喜兵衛と、妻おその、娘おしのと認められる。一方その年の晩秋、江戸の町では殺人事件が相次ぎ、骸の傍らには必ず椿の花弁が残されていた。被害者はいずれも殺されて当然と思われるような悪名高い男たちばかり。この一連の事件に、与力青木千之助が捜査に当たる。聞き込みの末に若い娘の影を掴むが、果たして娘とは・・・・・・。法で罰することのできない、けれど到底許しがたい罪をどう裁くべきなのか――昭和の文豪・山本周五郎懇親の傑作長編。(Amazon*1より引用)
 
  • 周りからは「最初に随分とディープなのを選んだね」と言われましたので、もしかしたらイレギュラーなものを選択してしまったのかもしれません。
  • 全体的に美しいという一言に尽きる。そんな作品でした。
  • 自身のペンネームにする位ですのでお察しとは思いますが、私は椿の花が好きでございます。
  • 恐ろしいほどに鮮やかで、花弁が一枚ずつではなく、花ごと一気に潔く散りゆく姿に惹かれるものがあるのです。そして、それは此の『五辧の椿』の主人公である、おしのにも通ずるようにも感じます。
  • 主人公のおしのから感じられる十八歳特有の潔癖さ。
    血の繋がらない父への愛情と、父を嘲笑うように自身の欲望に忠実だった血の繋がった母とその男たちへの憎しみを募らせる姿がそう思わされました。
  • それはおしのが、

幸福でたのしそうで、いかにも満ち足りたようにみえていても、裏へまわると不幸で、貧しくて、泣くにも泣けないようなおもいをしている。世間とは、本当はそういうものかもしれない。―そうだとすれば、おっ母さんのような人はいっそう赦すことができない。心では救いを求めて泣き叫びたいようなおもいをしながら、それを隠してまじめに世渡りをしている人たち。そういう人たちの汗や涙の上で、自分だけの欲やたのしみに溺れているということは、人殺しをするよりもはるかに赦しがたい悪事だ。(P.293-294)

       と語る最終面で場面に現れていると思います。 

  • 又、おしのは母を憎みながらも、その母と同じ血が流れる自分自身を憎んでいます。

母のしていることは、不行跡とか、みだらだというだけではありません。世の中の掟や、人と人との信義をけがし、泥まみれにしたうえ、嘲笑しているようなものです。
ーそしてその母の血が、わたくしのこの軀にもながれているのです。(P.321)

おしのは、母の分身となったかのように別人になりすまし、男たちに近づき復讐を遂げます。しかし男を殺す直前、彼女は彼女自身に戻り、自分自身にも復讐を遂げていくようでした。男を殺した後、嘔吐する姿がその事を物語り、痛々しくもあり美しさも引き立てます。
また、終盤のおしの一致しない言動にも十八歳特有の矛盾もありました。恐らく、おしのと同じ十八歳の頃に私がこの作品を読んでいたら今以上に強く共感していたと思います。それ位リアリティを感じさせる潔癖さでした。
  • 内容も考えさせられる点も多かったです。
    山田宗睦の解説にも書かれていますが、山本周五郎は“法”を意識した作品が多くある。そして今回の『五辧の椿』を山田宗睦は、

山本周五郎が『五辧の椿』でとりくんだのは、御定<法>も罰せられない罪がこの世にはあり、それを人間の<掟>から審くというテーマであった。(P.336)

  としている。

  • 作中では、

悪い人間が一人いると、その「悪」はつぎつぎにひろがって人を毒す。いちど悪に毒された者は、容易なことではその毒から逭れ出ることができない。(P.292)

 

人を殺すことは罰することでもなく、罪のつぐないをさせることでもない。その人の罪は、御定法で罰せられないとすれば、その人自身でつぐなうべきものだ、ということに気がついたのである。(P.323)

  が印象的でした。

  • 今回初めて山本周五郎の作品だったのですが、文章がもっと格式張った小難しいものを想像していましたが非常に読みやすかったです。